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ネウロを通してKanon、AIR等の作品を観る

「魔人探偵脳噛ネウロ」11巻を読んで思ったこと。

魔人探偵脳噛ネウロ 11 (11) (ジャンプコミックス)
魔人探偵脳噛ネウロ 11 (11) (ジャンプコミックス)
松井 優征


ネウロ、Kanon、AIRのネタバレあります。特にKanonはネタバレしまくりです。


第90話「0【-】」 で、HALが消滅する0.000000000000000001%の瞬間に刹那と出会います。
作中では、「なぜHALは刹那に出会えたのか?」という疑問に明快な答えは描かれていません。
これはネウロではすごく珍しいシーンです。ネウロは読者が頭を空っぽにして読んでもだいたい理解できるような作品です。
なので、読者に考えさせるようなこのシーンはすごく珍しいシーンです。
(そもそも感動的なシーンというだけでも十分珍しいのですが。次の事件が「家具の力で破滅を与える!!」だから余計にそう思う。)

僕は、このシーンを最初に見た時、
「なんか、Kanon、AIRっぽいなぁ」
と思いました。
他にも、CLANNADとか、リトバスとか、まだプレイしてないけど「それ散る」とか。

作中で明快な答えを出さず、読者の解釈に委ねる、という部分が似ているな、と。
このシーンはKanonでいう奇跡みたいなものかな、と。


で、2度目に読んだ時、「なぜHALは刹那に出会えたのか?」という疑問の答えを考えました。
その時に考えたのが
「刹那の姿だけなら簡単に構築できるはずだから、HALが消滅寸前に無意識のうちに作ってしまったのではないか」

でも、これはあくまで物理的な部分での解釈で、次に
「このシーンは作者が何を”表現”しているのか?」
について考えました。っていうかネットで感想サイトを回りました。

一番しっくりきたのが「BWSのダイアリー」の第90話感想

>消滅する0.000000000000000001%の瞬間に刹那と出会うHAL。

>1の世界=生の世界、1と0の狭間=電脳世界、0の世界=死の世界。そして、刹那は0の世界の住人。

>そう考えると、最期にHALが見た刹那は死の象徴、つまり、“限りなく死に近い刹那の世界でHALが認識した死そのもの”だったのではないかと思います。0は完全な無ですので、0の世界に辿り着いたHALが死を認識することは出来ません。即ち、自己が0に到達する(消滅する)一歩手前で、ようやく0となった刹那(=死)を認識することが出来たという描写なのではないでしょうか。少なくとも、刹那の魂といった意思のある類のものではないでしょう。意思のある存在ならば、自分のことを想い続け、世界的犯罪すら厭わなかった春川教授に対して、一言声をかける描写があってもおかしくないはずですから。

>「HALの見た刹那=死」について若干の補足。少し現国のお勉強のような話になりますが、今週の冒頭で春川教授が“遠い”と嘆いているのは「生と死の距離」です。そして、消えゆくHALが刹那を認識したとき、遠かった距離が“近く”にまで縮んでいる。その場合、一体何と何の距離が“近くなった”かは、“遠かった”ときと同じものを指していなければなりません。つまり、春川教授が嘆いていた「生と死の距離」を指している必要があるということです。HALは刹那を死(0)と認識していたために、己の1(生)が消え、0(死)に到達する瞬間に、近づいた死のイメージとして“近くにいる刹那の姿”を見たのではないでしょうか。



「…なるほどなぁ」、と感激したことを今でも覚えています。

このシーンを物理的に解釈することに意味はなく、作者が何を表現しているかに大きな意味がある。
僕はそう思います。


そして、Kanonなどの話になるのですが、以下、ネタバレ注意。

Kanonでは、作中では明確な説明がない超常現象が存在します。
真琴シナリオでは、真琴は狐が人間に変化したものであることが明かされ、
舞シナリオでは、学校に魔物が現れ、その魔物が舞が作り出したものだと明かされ、
栞シナリオでは、病気で死にそうだった栞が、なんか超常現象っぽいシーンの後、病気が治り、
名雪シナリオでは、重傷の秋子さんが超常現象っぽいシーンの後に治ったという描写があり、
あゆシナリオでは、あゆが生霊のようなものだったことが明かされます。

これらの超常現象はほとんど説明されません。
真琴については妖狐の伝説というものがありましたが、「細胞を変異させて」とか「シナプス回路を組み替え」とか、そういう細かい部分での説明は全くありません。

僕は、Kanonを読むときは、これらの超常現象の理屈を考えるのではなく、これらの超常現象を用いて作者は何を表現しようとしたか、どのような物語を描いたかに注目すべきなんじゃないかと思います。

要するに、栞シナリオで、超常現象っぽいシーンの後に栞の病気が治るのはご都合主義な展開と解釈するのではなく、何を表現しているのか、この展開に行き着くまでにどのような物語を描いたか。
あゆシナリオで、あゆが消える直前の3つ目の願い事を言うシーンで作者は何を表現しているか、どのような物語を描いたか。
このような部分に注目すれば良いのではないでしょうか。
(ちなみに、栞シナリオは、現実逃避する姉妹が現実と向かい合う物語だと解釈しています。少なくとも、読み手を安易に感動させようとする物語じゃないよね。)

AIRは超常現象が何割か説明されていますが、説明されていない部分はやはり理屈を考えるのではなく、何を表現しようとしたか、どのような物語を描いたかに注目すべきなんじゃないかと思います。
最後の少年少女も、「表現」で考えた方がいいんじゃいかな、と。誰かの転生ではなく。

CLANNAD、リトバスも同様。

説明されない超常現象の理屈を考えることに意味は無し。大切なのは「表現」。
僕はそう思います。


あーでも、意味はなくてもいいから、超常現象の理屈は考えたくなるよね。
それと、内容的に説明すべきなのに説明していないという作品もあるので、これは例外として考えたほうがいいかな、と思います。見分けるのが難しいような気もするけど。

ところで、もうすぐ「それ散る」(「それは舞い散る桜のように」)をプレイしようと思うのですが、この作品もこの記事で書いた読み方で読んでもいいかな?
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  1. 2008/03/05(水) 02:05:12|
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